弱いことを盾に努力を怠りたくない
がむしゃらに頑張れる時と、弱って何もできない時がある。
生きる事に意味があると思う時もあれば、意味などないと思う時もある。
弱った時に、自分が立ちあがる為の「丁度いい高さの台」に他人を置く時もある。
だがそうばかりも出来ない。
何度もやっていると癖がつく。
弱った時に他人を使えば良いと、楽をしようとしてしまう。
他人は丁度いい台でもなければ、松葉杖でもなく、愚痴を投げ込む大穴でもない。
だから、余所様を巻き込まずに立つ方法が一つ以上は必要である。
私の中のイマジナリーなヌラリヒョンはその一つに該当する。
私は異性からの慰めに性的行為を必要としない人間なので、空気や言葉で十分だ。
私の中のヌラリヒョンは饒舌に語る事はなく、基本的には物静かである。
ぽろぽろと零す弱音にもただ耳を傾けるばかりで、相槌ばかりだ。
私の感情を曲げる事はなく、例え私が矛盾した事を言っていても聞き流している。
よく言う言葉は「大丈夫」と「傍にいる」だ。
事態が好転しようがしまいが、大丈夫と言うし、どれだけ転落しても、傍にいると言う。
与えられた言葉によって着想を得るとか、新しい視点に気づくとかそんな事はない。
どんな時も決めるのは自分で、責任を負うのも自分である。
だが、帰る所がある事で少しばかり安心感を得られる。
今日もまた、繊細過ぎる自分をどう操っていけば良いのかと疲れていたが、
今さら図太くなれないのだからしょうがないと諦めたところだ。
自分は世の中の小さすぎて下らない事に心が向いてしまうのは仕方ない。
今日も数日前に飼いだしたザリガニが、庭で蹴り折った若竹に入っていたことに嬉しさを感じた。
本当にどうでもいい事ばかり目についてしまい、誰かに言いたくなってしまう。
だがこんな面白みもオチもない話を他人にしたところで困惑させてしまう。
そういう時、ヌラリヒョンに報告するのだ。
「ザリガニが竹の中に入ってくれた!」
当然ながら、ヌラリヒョンは良かったなあと簡素に返すだけだ。
それでも一度は自分ではない何かに感情を伝えた事に私は安堵する。
今日も与えられた役目以外をやれた。