イマジナリーヌラリヒョンと過ごす日々

雑多なこと。方向性は決まっていない。

批評と感想

批評について。

ツイッターで「例の作品」というワードだけがトレンド入りしたアレ。
説明すると、短編漫画で三人でゲームを作る話で、絵担当の人の変化に焦点を当てられた作品。
読んだ時はふうんとしか思わなかったのだが、これがめちゃんこバズった。
バズった理由は「不快」

ツイッターには絵描きが沢山いる。プロもアマも。
チームで物作りをした時に、大抵の絵描きが同じような体験をして、とても嫌だったという事だ。
そんな心の奥底、記憶の奥底に封印していたものが、その作品でバックリと傷が開いてしまったというわけ。

っぽいよ?

作品に対して、嫌な気持ちになった。不快だった。悲しかった。辛い。などを想う事は自由であり、ツイッターに呟くのも勿論自由だ。
だが、自分の感情と作品の良しあしはまた別の軸である。

これを混同してしまうと、俺は不快だったからこの作品は駄作、即刻ヤメロ、なんて論理がまかり通ってしまう事になる。

ツイッターで人の感想を検索する事もあるだろうが、書いてあることを全て受け入れるのは危険だと思う。
これは、感情的なものなのか、冷静な批評なのか。
そこをしっかりと見ていないと、本当にいい作品を見逃し、自分が良いと思った自分の感性を信じられなくなる。
にちゃんが流行っていた時もそうだ。
にちゃんの言葉を全て鵜呑みにし、それが世間の総意だと思ってしまうと、動けなくなる。
実際それで社会に出られなくなった人間も知っている。

SNSとの付き合いって、やはり難しいなと思う。少なくとも私にとっては。
沢山の意見を見て参考にしたいのだが、人々の思念に飲み込まれて自分が消えてしまっては意味がない。
情報社会と言うが、情報が多すぎると言うのもまた厄介なものだ。
取捨選択をしっかりと行い、自分をブレさせない事。
言葉では簡単だが、実際に行うのは難しい。知らず知らずのうちに絡めとられていることだってある。

意見を簡単に発信できる、簡単に目にする事ができるようになった弊害だ。
感受性豊かな若い人たちは大丈夫なんだろうか……。
数世代先になれば、情報とのやりとりも上手くなるんだろうか……。