イマジナリーヌラリヒョンと過ごす日々

雑多なこと。方向性は決まっていない。

本の感想

三行で撃つ」近藤 康太郎  (著)

こちらで紹介されていた、「三行で撃つ」
人々の感想を見る限り、これは買いだと思って閉店間際に買ってきた。

感想・良かった。
帯に書かれていた文章が、もうずるい。

『世界は変わらない。常に醜い。人生は無価値だ。人間は愚劣だ。
 では、なぜおまえは生きているのか。文章など書いているのか。
 世界は、よくも悪くもなりはしない。
 それでいい。ただ、世界の、人間の、真実を見つめることはできる。《本文より》』


第三章、読者とはだれか、に書かれている言葉。
『だが、だれも理解してくれなくても、誰に求められなくても、自分のために、世界のために書く。そういう文章は、熱量が途方もなく高ければ、どこかに読者は現れる。』P131より引用


この本は文章をある程度書いている人に向けだ。特に向上心を持った者にはとても刺さると思う。
物語でもないのに、何度も泣いてしまうのはそれだけ自分に響いたからだ。

小説なんて書いている間は孤独だし、発表したって孤独だし、ほんと良い事ない。
それでも書く事を選んだのは自分で、書き続けているのも自分である。
変態の所業である。どえむだと本気で思っている。

自論だけれど、満たされた人間に文章は書けない。
言いたい事、伝えたい事、やりたい事があって、アウトプットしないと気持ち悪い人間が文章なんて書くんだと思う。
辛ぇー、逃げてぇーと思いながら執筆してしまうのも、自分の中に未だ形にならない熱情があるからだ。
でも、書いたからと言って必ずしも誰かが読んでくれるわけではない。
それでも書く。書かずにはいられないから。

執筆なんて孤独でしょうがないと思う。
今は文学の時代じゃない。


『文学は実学である』(荒川洋治 著)の著者が語っている記事だ。

人間の研究をしているというのは、まさにそうだと思う。
誰を見ててもじっと観察している自分がいる。
現実でもネットでも。
それらが小説にも反映している。
登場人物の心の機微を描くには観察は必須だ。
私が書きたいものはそういうものだから、観察は続けなければならない。
とは言え、何十年もやっているので意識はしていない。ライフワークだ。


執筆は辛いし、評価もされないがそれでも書いてしまうのは、生活の一部であり、自分の一部なんだろう。